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祗園城 (ぎおんじょう) |
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写真は堀底から見上げた祗園橋です。 城郭関連の本 城郭関連商品 |
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祗園城訪問記 | |
祗園城の築城時期については明らかではありませんが、一説には平安時代に藤原秀郷が築城したといわれています。 ですが一般的には、小山氏(藤原秀郷の子孫)が14世紀に入ってから築城したものだと言われており、実際この城が歴史上に姿を現すのも、14世紀に入ってからです。 領土問題のため、足利氏満と不和であった小山義政が南朝方に通じたことで、祗園城は宇都宮氏により攻められます。その戦いは1380年に起こり、結果として小山義政が大勝すると、それを重く見た鎌倉公方・足利氏満により祗園城は攻められます(第一次小山義政の乱)。 義政は間もなく降伏しましたが、氏満に謝罪をせず、鷲城を修復し戦いの姿勢を見せたため、1381年に再び戦いとなり、義政は降伏(第二次小山義政の乱)。その結果、義政は守護職と旧領を召し上げられ隠居することになりましたが、義政はそれを不服とし祗園城を焼き、粕尾城に立て籠もりましたが敗れ自刃しました(第三次小山義政の乱)。 この後、祗園城には結城氏が入り、小山氏は再興しましたが、戦国時代に入ると、祗園城では上杉氏・武田氏・後北条氏により争奪戦が繰り広げられました。 1563年には上杉謙信により攻められ、城主小山秀綱は降伏。1564年には北条氏政に攻められ、一時は北条氏照軍により祗園城が占拠されました(多賀谷氏の助力により間もなく回復)。 しかし1574年、とうとう祗園城は後北条軍に攻め落とされ、小山秀綱は佐竹氏を頼って落ち延びました。 その後小山氏はたびたび祗園城を奪還しようとしますが、それはなりませんでした。 1582年、武田氏滅亡により前橋城に入った滝川一益がとりなしたことにより、祗園城は小山氏に返還されましたが、一益が関東から撤退すると、祗園城は北条氏照の管轄下に入りました。 1590年の豊臣秀吉の小田原攻めにより、小山氏は滅亡。それにより祗園城も廃城となりましたが、1616年に本多正純が入城し、城を整備しました。 しかし1619年に、本多正純は宇都宮城に転封となり、それにより祗園城は廃城となりました。 |
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参考文献・参考サイト ビジュアル・ワイド日本の城(小学館)・現地解説板・埋もれた古城(ウモ氏個人サイト) |