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通説となっている、謎の死
  さてその後、景家は織田信長の配下であり、北陸方面侵攻の総大将である柴田勝家に対抗するため、越中に出陣します。
 しかし1575年(1574年とする説もある)、織田信長に内通したと疑われ、上杉謙信の手により息子晴家と共に水島で殺されてしまいます(切腹したとも言われています)
 これが景家の最期に対する通説なのですが、これには、いささか疑問が残るのです。というのも、これにより景家と晴家が殺され、柿崎氏の家督は景家の弟(?)である三四郎が継いだ、と「上杉家年譜」「北越軍記」などには記されているのですが、信憑性が高いとされている「上杉家軍役帳」、「上杉家中名字尽手本」などには、家督を相続したのは晴家であると記されているのです(晴家は通説では景家と共に亡くなっているはず)。この史料では晴家は1578年に亡くなったとされています。
 更に1578年には、景家の次男憲家に、家督が相続されています。もし晴家が家督を相続していたとすれば、晴家が1578年に没した→なので憲家に家督が移ったと考えることができます。一方、三四郎が没したと言う記述は見当たらないので、ここにも矛盾点が見られます。
 更に別の史料では、晴家は1578年の御館の乱で上杉景虎を支援しているので、そこにも矛盾点が生じます。
 これらを総合すると、景家が内通の罪で晴家と共に殺されてしまったと言うのは、後世の創作ではないか、と考えることができます。
 正しくは、1575年に景家病没→晴家が家督相続→1578年の御館の乱の結果晴家が処罰→憲家に家督相続、という流れではないでしょうか?
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