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春日山城 (かすがやまじょう) |
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写真は復原された毘沙門堂です 城郭関連の本 城郭関連商品 |
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春日山城訪問記壱 春日山城訪問記弐 春日山城訪問記参 | |||||||||||||||||||
春日山城の築城時期については定かではありませんが、1510年頃、この地の守護代であった長尾氏により築城されたといわれています。 長尾為景は1530年頃に春日山城を本拠としましたが、国人衆との争いなどの際、春日山城はたびたび攻められています。 長尾晴景(上杉謙信の異母兄)が守護代を継ぐと、弟の長尾景虎(上杉謙信)を栃尾城に派遣し、協力して国人衆の鎮圧に当たりました。 1545年には、黒田秀忠が春日山城で晴景に謀反を起こします。 この事態に際し晴景は、景虎を春日山城に呼び戻し謀反を鎮圧。 1550年に守護であった上杉定実が亡くなると、景虎がこの地の支配権を得ました。 この後、春日山城は徐々に拡張が進められ、1573年頃、今現在見られるような城郭となりました。 1578年に上杉謙信が亡くなると、上田長尾氏からの養子である上杉景勝と、後北条氏からの養子である上杉景虎との間で後継者争いが勃発。 景勝が春日山城を占拠したため、景虎は春日山城を脱出し、御館に立て籠もりました。 この争いの中で、春日山城は攻められていますが結局落ちず、最終的に景虎は鮫ヶ尾城で自害し、後継者争い(御館の乱)は終息したのです。 1598年に景勝が会津に転封となると、代わって堀秀治が入り、春日山城を近世城郭へと改修しましたが、秀治の子忠俊の時代に福島城が完成するとそちらへ移り、春日山城は廃城となりました。 |
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参考文献・参考サイト ビジュアル・ワイド日本の城(小学館)・現地解説板・現地配布パンフレット・埋もれた古城(ウモ氏個人サイト) |