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関ヶ原の戦いと、その後の清正

1599年に五大老筆頭・前田利家が死去すると、清正は福島正則や浅野幸長らと結託。
共に石田三成暗殺未遂事件を起こすなど、反三成の態度を表面化させていきます。

そんな中、1600年に関ヶ原の戦いが勃発。
清正は東軍に属し、九州方面の戦いを担当。
小西行長の拠る宇土城や立花宗茂の拠る柳川城など、九州西軍の勢力を破ったのです。

戦後、清正は肥後一国を安堵されましたが、家康に警戒されていることを感じていたのか、
1610年の尾張名古屋城の普請の際は、自ら積極的に参加したと言われています。

1611年清正は、二条城における豊臣秀頼と徳川家康との最初で最後の会見を斡旋。
会見は無事に終わったのですが、帰国途中の船上で病魔に冒されてしまいます。

病状は好転せず、結局その年、清正は熊本で亡くなってしまったのです。

名古屋城
清正が普請に参加した名古屋城(愛知県名古屋市)
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