加藤清正TOPへ
日蓮宗を信仰し、キリスト教を弾圧

加藤清正は、日蓮宗を熱心に信仰していました。
というのも、彼はまだ信長が生きていた時代に、摂津本妙寺の日真上人と親交を持ち、その教えに感化されたのです。
ゆえに彼の旗印は「南無妙法蓮華経」の七文字であり、また家臣らにもこの旗印を用いさせたと言われています。
ちなみに日真上人は、清正が熊本城城主となった後、熊本に移住し本妙寺を建てています。

加藤清正は肥後半国を領していましたが、残りの半分は小西行長が領していました。
小西行長は熱心なキリスト教信者であり、それもあってか、行長と清正は犬猿の仲であったといわれています。
そんな行長も関ヶ原の戦い後斬首され、肥後一国が清正のものとなりました。
しかし、行長の領土だった場所はキリスト教が根付いていました。
そこで清正は行長色を一掃する意味も込め、キリシタン達に日蓮宗の僧の話を聞かせ、日蓮宗に改宗させようとしました。
しかしキリシタンが改宗をことごとく拒否したため、清正はやむなく教会を破壊するなどの強硬策に出たのです。
当然のごとく、キリシタンたちは清正に対し怒りを募らせ、まさに一触即発の状態となったのです。
ここにきてついに、清正はキリシタンの弾圧を開始。
大きな弾圧は1603年と1608年に行われました。
この弾圧は相当のものだったらしく、当時の宣教師、レオン・パジェスは清正を、「道徳観念に欠けた人」と評しています。

「コラム6 様々な逸話を持つ清正」へ
inserted by FC2 system