小早川隆景の養子に 秀秋TOPへ
 秀秋は1582年、木下家定(豊臣秀吉の正室北政所の兄)の五男として生まれました。
 1585年に豊臣秀吉の養子となり秀俊と名乗ります。その時秀吉の後継者が決まっていなかったため、秀秋は秀吉にずいぶんとかわいがられたようです(一説には学問を受け付けない少年であったと言われていますが、少なくとも五人いる家定の息子たちから選ばれているのですから相応の才を持っていたはずであり、これはありえないでしょう)が、、後に秀吉の後継者が秀次と目されるようになると、秀秋の立場は微妙となってしまい、そのため1594年、黒田孝高の献策により、秀秋は毛利家に養子として送り込まれることとなりました。
 しかし毛利家の当主・輝元の叔父である小早川隆景の願いにより、秀秋は結局毛利家ではなく小早川家に入ることとなり、その際「秀秋」と改名しました(毛利家に他の大名の血を混ぜないための配慮と言われている)。
 1596年の慶長の役では総大将として出陣。蔚山城の戦いにおいては自ら槍を持って奮戦し、敵将を生け捕りにするなど武勇を馳せます。
 しかし、総大将として釜山城を守らねばならないにも関わらず、蔚山城の救援に向かったことが「軽率」と判断されたのか(一説には総大将でありながら敵陣に突撃したことが「軽率」と判断されたともいわれています)、この戦いの後、秀秋は秀吉の不興を買ってしまったと言われています。
inserted by FC2 system