本多小松は徳川家の守護神・本多忠勝の娘として生まれ、才色兼備の女性として聞こえたといいます。 そんな小松は、1586年に徳川家康の養女となり、真田昌幸の長男・真田信幸(信之)に嫁ぐことになりました。
これは真田氏を恐れた家康と忠勝が、真田氏を取り込むための策として考えたもので、
小松は沼田城に移り、信幸との間に真田信政など二男二女をもうけます。
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小松の父・本多忠勝(桑名城) |
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小松が守った沼田城(群馬県沼田市) |
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小松の墓所(群馬県沼田市・正覚寺) |
1600年の関ヶ原の戦いの際、小松が嫁いだ真田氏は去就に迷い、
「真田昌幸・真田信繁親子は西軍に属し、
真田信幸は東軍に属す」という結論を出しました。
東軍に属することが決まった信幸は、出陣の際小松姫に
「城の守りを固くするように」と、小松に沼田城を任せたのです。 そんな中、西軍についた真田昌幸・信繁親子が、
自身の居城である上田城への道中、沼田城に差し掛かりました。
昌幸は、息子・信幸の城だからと、沼田城に入城しようとします。 ところが小松は城門を閉ざし、昌幸・信繁の入城を拒否したのです。
昌幸と家臣らは怒り、城門を強引に破ろうとします。 その時、小松が甲冑をつけ、薙刀を持った姿で門に現れました。
驚く一同に対し、小松はこう叫びました。
「夫の留守に城を荒らそうとするのは不届き者であります。
自分は女といえども武人・本多忠勝の娘。
この城に手をかけるものは、義父であろうとも討ち取ります」 これには昌幸も閉口し
「孫の顔が見たくて寄っただけだ。城を取るつもりはない」と弁明。
すると小松は、城外の正覚寺を昌幸の宿泊所として用意し、
昌幸が正覚寺に入ったことを確認すると、
信幸の子供と正覚寺に向かい、昌幸と孫達を対面させたのです。 ちなみに、この時の小松の判断は正しいものでした。
というのも、この時昌幸は上田城に戻るついでに
道中の沼田城を内部から落とそうという計画を立てていたのです。 関ヶ原の戦い後、小松は信之と共につつましく暮らす一方、
九度山に配流となった昌幸・信繁親子に食料や雑貨品を送るなど、
義理の家族への心遣いも怠りませんでした。
また1614年から1615年の大坂の陣に際して、夫・信之が病気のために出陣できなくなってしまうと、
代理で出陣する長男・真田信吉(異腹の子)と次男・真田信政(自らの子)を激励する一方、
密かに重臣・矢沢頼康に「信吉と信政に、何事にも気をつけるように言い聞かせてほしい。
もし二人が血気に逸ることがあれば、そなたに止めてもらいたい」と申し付けるなど、
息子達の身を案じるが故の心遣いを見せています。 そんな小松は1620年、療養のため草津温泉に向かう途中に、埼玉県の鴻巣で亡くなりました。
それを聞いた信之は「我が家のともし火は消えてしまった」と嘆き悲しんだと言われています。 |