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小寺氏配下としての活躍
孝高は1546年、姫路城で、職隆の長男として生まれました。
 当時、父職隆は御着の豪族小寺氏に帰属し、家老の地位につき、小寺の姓を称していました。 
 なので孝高も小寺を姓としました。
 さて、孝高の幼年時代のエピソードとして「黒田家譜」に、次のような話が記載されています。

 孝高は円満という僧に学問を教えられました。ですが、孝高は武芸を好み、腕白だったといいます。
 ところが母である明石氏が亡くなると、孝高は別人のように寡黙になり、歌集など、文芸を好むようになったといいます。
 これを見た円満は「孝高殿は今の世をどのように見ているのですか。学問も大切ですが、なにより、まず強くなければ、敵に飲み込まれてしまいます。物事には、大切だという順序があるのです」
と、孝高を戒めます。もともと孝高は聡明だったので、直ちに態度を改め、馬や弓の訓練をし、兵法を勉強したといいます。
 
 さて、この逸話は残念ながら創作の可能性が強いのです(黒田家譜は、代々黒田家に仕えた家の人が書いているので、そこかしこに装飾が見られる)。
 しかしながら、孝高はたしかに非凡な才を持っていたようです。
というのも、孝高が十六歳のとき、主君であった小寺政職が姫路城に立ち寄り、そこで配膳係を務めた孝高をひどく気に入り、父職隆に頼み、御着城に連れ帰り、近習に取り立てているのです。
 政職の家臣たちからの評判もよく、「知恵や才覚があり、慈悲深く、人に対する思いやりが深い若武者である」と言われていました。
 孝高は十七歳で初陣し、父職隆と共に土豪を討伐し、手柄を挙げています。
 更に22歳のとき、政職の言葉により、櫛橋伊定の娘(政職の姪に当たる)を娶りました。
 それとほぼ同時に父職隆から家督を譲り受け、孝高は小寺氏の配下として、土豪の討伐などで功を挙げ、奇襲作戦を二度にわたって用いることで、赤松氏の軍勢を敗走させた青山の合戦で武名を挙げました。
 その後も別所氏などを退けるなどして、その武勇を播磨の一円に響かせました。
 そんな中、1575年に、小寺政職は重臣達を集め、ある相談をします。
 その相談とは「わが小寺家は、毛利・三好・織田のどれかに属しようと思う。お前達の意見を、隠さず述べよ」というものでした。
 毛利家につくのがいい、という意見が多数でしたが、孝高は「織田家につくべきでしょう。毛利家の当主である輝元には天下人の器量はなく、戦も上手くありません。
織田家の当主である信長は武名も天下に轟き、更に天子を抱いて諸政にあたり、民衆の支持も高くなっています。信長に従ってこそ、小寺家は発展するでしょう」と、一同を説き伏せました。
 孝高は自ら使者として信長の元に赴き、信長に、播磨の攻略に関しての雄弁を振るいました。
信長はそんな孝高を気に入り、小寺の従属を認め、更に「そなたが手柄を立てれば、ひとかどの大名にとりたててやろう」と、「圧切」という刀を、孝高に与えたといわれています。
 このように孝高は、小寺氏の元でその才を発揮していたのです。
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