黒田孝高TOPへ
野望の人か、忠義の士か
  孝高のイメージとして、一般的には「孝高は野望の士であり、油断ならぬ男。いつ裏切るかも分からないので、警戒を怠ってはいけない人物」というものが定着しています。
 その証拠として「秀吉は孝高を警戒していたし、秀吉が亡くなってからすぐの関ヶ原の戦では、天下を取ろうと動いていたではないか」ということも言われています。
 果たして、彼は本当にそのような人物だったのでしょうか?
 まずは野望の士というイメージ。これは正しいでしょう。関ヶ原の戦に乗じて天下を取ろうとしていたことからも、それは明らかです。
 しかし、いつ裏切るかもしれない男と言うイメージ。これはどうかと思われます。
というのも、孝高が仕えたのは小寺政職・織田信長・羽柴秀吉・徳川家康(家康は晩年なので微妙ですが)の四人であったわけですが、
これらの人物に使えている間の孝高を見ていると、孝高は彼らをもり立てるために身命を賭して働いており、彼らを裏切ろうとした形跡は見られないのです。
関ヶ原の戦に関しても「秀吉が亡くなり、主君がいなくなったので、自分が天下を取ろう」という考えの下で、動いていたと考えられます。
 つまり、孝高は「野望の人ではあったが、主君に対しては身命を賭して働く、忠誠心高い忠義者」であったという解釈が成り立つのではないでしょうか?
inserted by FC2 system