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躍進、播磨攻め
  さて小寺氏が織田信長に帰属したことは、早くに毛利氏に知れ渡ることになりました。更に荒木村重が同じく信長に帰属したことで、播磨の豪族達には信長になびく者が現れました。
毛利氏は危機感を覚え、1576年に孝高の姫路城を攻撃します。
 しかし孝高はまたもや奇襲戦法を用いこれを撃破しました。
ところが、毛利氏が「織田信長は譜代の臣である者たちにも残酷である。そなたらのような新参者がどのような目に合わされるとお思いか?」と、播磨の豪族達に説いたので、播磨では、再び毛利氏の勢いが盛んになったのです。
 孝高は秀吉に播磨の状況を伝え、秀吉もまた、それを信長に伝えました。
 それを受けた信長は中国地方への侵攻を決意。信長は自分になびいた播磨の豪族達に人質を出すことを要求します(豪族達の裏切りを防ぐため)。
 もちろん小寺氏も例外ではなかったのですが、小寺政職は人質を出すのをためらいました。そこで孝高は自らの息子である松寿丸(黒田長政)を、小寺家の人質として信長の元に送りました。
 その後、播磨攻めの大将である秀吉が小寺政職のもとに向かってきたのですが、ここで問題が生じてしまいます。というのも、政職が再び、毛利氏につこうと動いていたのです。
孝高はとりあえず秀吉を姫路城に迎え、政職を説得しますが、結局政職は動きませんでした。 
 もしそれが信長に知れてしまったら、政職、ひいては自分の命すら危うくなってしまいます。
 なので孝高は、とりあえず東播磨に割拠している豪族達を説得によって懐柔し、帰属させました。秀吉は大いに喜び「今より兄弟の盟を結ぼうではないか」と、孝高と兄弟の盟を結び、政職のことは不問としたのです。
 それからというもの、孝高は秀吉のもとで、文字通り右腕としての活躍をします。
 秀吉は佐用城・上月城を落とし、その途中で信長に背いた別所長治の籠る三木城を攻囲しました。
 ですが、そんな中、思いもよらぬことが起こります。
 1578年、織田の武将として摂津を固めていた荒木村重が突如として信長に反旗を翻したのです。しかもそれには、小寺家も加担しているというのです。
そこで孝高はまず、御着(小寺氏の本拠)に出向き、政職を説得します。しかし政職は煮えきらず、そのため孝高は、先に村重を説得しようと、村重の居城有岡城に向かいます。
孝高は村重と面識があったので、理を説いて説得すれば聞き入れると思ったのでしょう。
 しかしそれに反し村重は、孝高の説得に耳を貸すことなく、孝高を牢に閉じ込めてしまいます。
 結局孝高が救出されたのは、有岡城が落城した1579年でした。
 その間、孝高の頭の毛は抜け、また片膝が曲がってしまい、それはついに元に戻りませんでした。
 有岡城が落ちたことで、村重に加担していた小寺政職は逐電し、そして亡くなってしまいました。ここで、孝高は信長に反抗した「小寺」の姓を捨て、本姓である「黒田」を名乗るようになりました。
 その後、とうとう三木城も陥落、それにより孝高は国府山城を与えられました。
 三木城が落ちたことで、その後の播磨の平定は難なく進み、とうとう平定は完了。1580年、孝高は一万石の大名となり、さらに翌年、一万石を加増され二万石の大名となりました。
 孝高はようやく、大名の仲間入りをすることができたのです。
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