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秀吉を天下人へ
  その後も孝高は秀吉の元で活躍し、因幡攻め、淡路平定に活躍します。
 そして1582年、備中の毛利氏を攻めるため秀吉と共に西進し、堅城と名高い高松城を攻めます。しかし城兵は堅固に抵抗し、秀吉は高松城を攻めあぐねます。 
 そこで孝高は、高松城を水攻めにする策を提案。それは見事成功し、高松城の城主・清水宗治はその死をもって城兵の命を助けることになりました。
 また毛利氏は、信長が親征してくるという情報をつかんだので、勝ち目がないことを悟ったのか、秀吉に和議を申し入れました。孝高はその際に和議の使者を勤め、交渉を進めていきました。
 ところが、1582年6月2日、本能寺の変が起こり、信長が亡くなってしまいます。
翌日にその情報をつかんだ秀吉は、親征をするはずの信長の援軍が期待できなくなったこと、そして撤退し明智光秀を討つにしても、毛利氏の追撃にあってしまうことなどで悩みます。
 しかし孝高は、「これこそ天下を取る千載一遇の好機であります」と秀吉にささやき、領土の関係で行き詰っていた講和をその日のうちに締結し、更に水攻めの際に作った堤防を切ることで、毛利氏の追撃の問題を解決します。
また毛利氏から人質として取っていた吉川経重と毛利元綱を毛利氏に送り返すことで、後のための布石を打ちました。
 孝高の策によって、秀吉は素早い帰還を成し遂げることができたのです。
 そして山崎の戦でも、孝高は左翼山の戦いで戦功を挙げるなど、活躍します。
 1583年の賤ヶ岳の戦いでは、孝高の部隊が敵将佐久間盛政を捕らえるなどの戦功を立て、更に大坂城の築城に関わったことで、千石の加増を受けます。
ちなみにこの頃、孝高はキリスト教の洗礼を受け、「シメオン」という洗礼名をもらいました。
 翌年の小牧長久手の戦いには参加していませんが、孝高はこの頃ようやく、毛利氏との領土問題を解決することに成功。それにより更に加増を受けました。
 そして1585年の四国征伐では、孝高は先鋒として出陣、喜岡城・藤岡城などを落とし、本隊と合流。木津城・渭山城を本隊と共に陥落させ、最期まで頑強に抵抗してきた岩倉城を、策を用いて落としました。
 更に1587年の九州征伐では、孝高は軍奉行として九州を転戦、まず九州の豪族達に「味方になれば間違いなく領地を安堵される。
そなたらは関白(秀吉)が九州に下向してきた際に、島津氏から関白に寝返りなさい」という廻文をまわし、調略を進めます。更に小早川隆景との協力の元、島津氏から竜造寺氏を引き離すことに成功。
この活躍より九州の平定は順調に進み、孝高は豊前八郡のうち六郡を与えられ、十八万石の大大名になりました。
 このように、孝高は秀吉のもとで活躍し、秀吉の天下取りを支えていったのです。
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