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突然の、隠退劇
 さて豊前を新領土とした孝高ですが、九州征伐が終わってからすぐ、肥後の各地で不満を持っていた豪族達が一揆を起こしました。孝高もその鎮定のため出陣したのですが、孝高の留守をいいことに、宇都宮鎮房が蜂起したのを皮切りに、豪族達が次々と蜂起し、豊前でも一揆が発生してしまいました。しかし孝高は豪族達をことごとく平定。更に毛利輝元の援軍もあり、最期まで抵抗した宇都宮鎮房も降伏。秀吉から「鎮房を誅殺せよ」との命令が下ったため、孝高は肥後への出張の際、「降伏した鎮房を中津城に招きいれ、謀を用いて誅殺せよ」と息子長政に命令。孝高自身は鎮房の息子・朝房を殺害しました。
 こうして、豊前の一揆は、一年ほどで平定されました。
 さて、こうして豊前が安定の目をみた1589年5月、孝高は長政に家督を譲り、隠退を表明します。
 しかし孝高はまだ四十代の働き盛りであり、この隠退は、早すぎるものでありました。
 ではいったい、孝高が隠退を決意した理由とは、何だったのでしょうか?
 それについては、秀吉の言葉で身の危険を感じたからだ、と言う説が一般的なのです。
 孝高が身の危険を感じた、という話を、紹介しましょう。
 
 ある日、山名豊国が孝高の元にやってきて、次のような話をしました。
「関白殿下(秀吉)が、先日『自分が死んだ後は、誰が天下を取るであろうか』と諸将に言われました。みな最初は黙っていましたが、秀吉に促されるので『徳川殿』とか『上杉家』、『毛利家』などの回答を口にしました。それに対し殿下は『お前達は大事な者を一人忘れている』というので、諸将が『思い当たりません』と答えると、『あの官衛兵(孝高)なら天下が取れる。今まで自分が苦難に陥ったとき、孝高に相談したら必ず埒があいた。自分が苦心して考え出した考えよりも、優れたことを述べる。また度胸もあり、人使いも上手い。自分が存命中でも、天下を取ろうとすれば取れるに違いない』と仰ったのです」
 これをきいた孝高は「関白殿下は自分を警戒している」と驚愕しましたが、「自分の器量を、それほど高く評価してくださっているとは、名誉なことでございます」と、受け流したと言われます。(古郷物語)

 秀吉が孝高と談話をした際、秀吉に「次の天下人を挙げてみよ」といわれた孝高が、さりげなく「毛利輝元」と答えると、秀吉は「いや、目の前の男じゃ」と孝高を指差したので、孝高は針の蓆に座る心地がしました。(常山紀談)

 これらの逸話が全て真実ではないにしろ、秀吉が孝高に警戒心を抱いていたことは、大坂から遠く離れた九州の豊前に孝高を転封したことからもうかがえます。孝高はその才を秀吉に警戒されていることを見抜き、「このまま働いていては秀吉に忌まれる」と判断し、隠退を決意したのだと考えられます。また一説には石田三成ら豊臣政権の新官僚らとの君寵争いを避けるために隠退したと言う説もありますが、性格に依っている説なので、自分としては賛成しかねます。
 とにかく、孝高は隠退を決意し、それを秀吉に表明します。あまりに突然のことであったので秀吉はそれを許さず、そのため孝高は秀吉の正室である北政所(ねね)に口ぞえを頼み、「隠退したといえども、今後も秀吉に奉公をする」という条件のもとで、それはようやく許されました。
 その条件どおり、1590年の小田原の役の際にも、隠退の身でありながら孝高は参戦し、小田原城との交渉の使者を務め、小田原城にこもる北条氏との和議を斡旋しました。
 その後豊臣秀次の好意により三千石を加増され、更には秀吉の養子である秀秋を、小早川家の跡取りにすることに尽力したと言われています。
 その後は朝鮮出兵が起こるまで、孝高は隠退した者らしく、茶道を学び、連歌会を開くなど、風流につつがしく生活をしました。
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