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倹約の精神と、それに反する褒美
  さて、孝高は質素倹約を尊んだといわれています。
 それを表す逸話の一部を、紹介します。

 孝高が筑前に移ったとき、家臣にこう言ったといいます。
「屋敷と米をやるので、庭には梅の木を植えろ。そうすれば梅干ができるから、食うには困らないだろう」

 孝高が湯治に行っている際、千石の家臣が干菜を、七百石の家臣が一升樽を持ってきました。孝高はこれを喜んで受け取りました。
すると今度は百石の家臣が、白木の折に入った大鯛を持ってきたので、「そなたの身代では、このような豪華なものを買えば銭がなくなり、武具も買えなくなってしまう」と言って叱りました。
その家臣は「この鯛は日ごろから親しくしていた者から送り届けられたものでございます」と言うと、孝高は「ではその鯛は受け取っておくが、その白木の折は持って帰り、売り払って銭にするがよい」と言ったといいます。

 ある日、町人達が瓜を大量に持ってきました。孝高は小姓などにそれを食べさせましたが、妙に皮を厚くむかせました。
その理由を尋ねると、「皮を厚くむかせたのは、塩漬けにして保存食とするためだ。瓜は足りるだけあったので、少しくらい小さくなっても問題はあるまい」と言ったといいます。

 その他にも様々な逸話があります。
 そんな孝高でしたが、決して守銭奴ではなく、家臣たちに褒美などを与える際は、惜しげもなくそれを与えたといいます。
 またもや逸話の一部で、それを見てみましょう。

 家臣がある手柄を立てたとき、「銀を十枚与えよう」と孝高がいいました。
しかしそれは立てた手柄に大してあまりに多い量であったので、他の家臣らが「三枚か五枚でいいのではないでしょうか?」と言ったところ、
孝高は「「自分が日ごろ節約するのは、このように家臣に褒美を多く取らせるためである。と言ったといいます。

 関ヶ原の戦いに際し、孝高は軍勢を募集し、集まった者たちに対し、支度金を与えました。ところが、支度金を二度三度ともらった者がいたのです。
支度金を与える係りの者はそれを孝高に報告しますが、孝高は「二重に金をとっても、その者が味方として働けば良い。同じものが二度来たとしても景気付けにはなるだろう。
そもそも、普段倹約をして金銭を蓄えたのはこんな時のためなのだからな」と、それを見て見ぬ振りをするように支持したといいます。

 これらの逸話からは、孝高が金銭の扱い方について、優れた感覚を持っていたのだということが言えるのではないでしょうか?
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