福島正成(くしま まさなり)
人物概略
姓は「くしま」と読む。
駿河の戦国大名今川家の家臣で、甲斐の武田信虎と戦うなどして武功を挙げる。
今川家の後継者争いである花倉の乱では、 良真に与するが敗れ、甲斐に逃げたところを信虎に殺された。
正成はいつ亡くなった?
福島正成は、今川家に仕える重臣でした。
1521年、今川家の当主である今川氏親は、甲斐に攻め入る計画を立てます。
その総大将に任命された正成は全軍を率いて甲斐に侵入。
正成はまず富田城を落とし、信虎の本拠である躑躅ヶ崎館を目指し進軍し、竜地台に布陣します。
敵である武田勢は三千程度でしたが、正成は正面からの力攻めは避け、むやみに動くことを避けました。
ところが、先に信虎軍が動き、飯田河原に陣を敷きます。
正成の軍も飯田河原に赴き、信虎軍と戦いますが、突破することができずに竜地台に引き上げました。
その際正成は「戦は兵の数ではない。油断をしてはならぬ」と全軍を引き締めたと言われています。
その後信虎軍は、上条河原に陣を敷き、そこでまたもや戦闘が繰り広げられました。
この戦闘で福島正成をはじめとする正成軍の主な武将がことごとく討たれ、信虎軍の勝利でこの戦闘は終わっています。
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さてこの戦闘で正成は亡くなり、息子である福島綱成が北条氏の下に逃げ、かくまわれたというのが通説なのですが、実は福島正成のその後についてはもう一つ説があるのです。
それは、「この戦に敗れた正成は氏親の元に戻った。そして氏親の後継者争いである花倉の乱で良真側についたが、良真が敗れたことで甲斐に逃走したが、信虎に殺された。これにより息子である福島綱成は北条氏の下に逃げ、かくまわれた」というものです。
というのも、信憑性の高い史料には、この時の今川軍の総大将について「福島衆」「福島氏」などの表現しかしておらず、「正成」という名前は記載されていないのです。
どちらが正しいのかは、今をもって定かではありません。
関連史跡
人物データ
生年 |
不明 |
没年 |
1536年? |
居所 |
高天神城(土方城?) |
父親 |
福島基正 |
母親 |
不明 |
兄弟 |
不明 |
妻 |
不明 |
子息 |
福島綱成(北条綱成) |
参考書籍