箕輪城(みのわじょう)
歴史
箕輪城は1500年頃、長野尚業により築城されたといわれています(諸説あり)。
長野氏は、関東管領上杉氏の重鎮として力を持ちました。
尚業の孫である業政は1551年、 後北条氏と戦った上杉憲政と共に奮戦し、憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に逃亡した後も、 周辺諸氏をまとめ後北条氏に抵抗しました。
1557年、甲相駿三国同盟を受け、武田信玄は嫡子義信を総大将とする一万三千の軍を派遣。
野戦で長野軍は敗退したため、箕輪城に立て籠もり防戦。
長野軍は善戦し、また上杉謙信が川中島に出兵したため、武田軍は撤退。
その後、信玄は何度か箕輪城を攻めますが、長野業政はよく守りました。
ですが業政死後の1565年、以前から周囲の城を落とし、箕輪城包囲網とも呼べる形勢を作り出していた信玄が倉賀野城を落としたことから箕輪城は孤立。
1566年に武田軍二万が、いよいよ箕輪城に侵攻してきます。
業政の嫡子業盛は奮戦しますが、最大の支城である鷹留城が陥落し、若田ヶ原の戦いで敗退したことから、千五百の兵で箕輪城に籠城するしかなくなってしまいます。
業盛はじめ城兵は最後まで戦いましたが、もはや衆寡敵せず、業盛は自害し、箕輪城は武田氏の家臣・内藤氏に与えられました。
武田氏滅亡後の箕輪城は滝川氏、ついで後北条氏の城となり、1590年の小田原攻めにより開城。
徳川家康が関東に入った後、箕輪城は井伊直政に与えられましたが、 直政が1598年、高崎城を築城し移ったため、箕輪城は廃城となりました。
箕輪城訪問記
■訪問記を開くお城データ
所在地 | 群馬県高崎市箕輪町西陣屋字城山 |
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築城者 | 長野尚業 |
別名 | なし |
城郭形態 | 丘城 |
備考 | 城址跡は非常に広範囲に展開しており、登山ルートも多い。 |
アクセス | JR高崎線「高崎駅」よりバスで33分(四谷停留所)→徒歩で10分 |
駐車場 | あり(二の丸駐車場・無料) |
満足度 | ★★★★☆ |
地図 | |
訪問日 | 2006年4月29日・2021年8月10日 |
参考資料
参考資料一覧 |
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ビジュアル・ワイド日本の城(小学館)・現地案内板・埋もれた古城(ウモ氏個人サイト) |