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沼田城(ぬまたじょう)

太鼓櫓1 太鼓櫓1

歴史

沼田城は1531年、この地方の有力者であった沼田顕泰によって築城されたといわれています。
1552年、関東管領上杉憲政が沼田城に身を寄せてくると、顕泰は長尾景虎(上杉謙信)に働きかけ、憲政は景虎の元に身を寄せました。
謙信が関東に出兵すると、沼田氏は上杉氏に降伏。
1569年、顕泰は庶子である景義に家督を継がせるため、嫡子である朝憲を殺害。
このことから家中に対立が起き、顕泰は会津の芦名氏を頼って落ち延び、これにより沼田城は上杉氏城代が支配することとなりました。
しかし1578年、御館の乱に乗じ後北条氏が沼田城を占拠してしまいます。
1579年、武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を指示。
謀略により周辺の城が寝返ったこともあり、翌1580年、沼田城は武田氏の城となりました。
1581年、沼田景義は沼田城を奪還すべく行動を起こしますが、昌幸の謀略により城内に入ったところを刺殺され、かないませんでした。
武田氏滅亡後、昌幸は主君をたびたび変えながら沼田城を守ってきましたが、徳川家康の「上州沼田領を後北条氏に引き渡せ」との命令に背いたことから(徳川氏と後北条氏の和議の際に甲斐・佐久・諏訪を徳川領にし、上州を後北条領にするという条件があった)、昌幸は家康と対立。
家康は大軍をもって上田城を攻撃しますが落とせず、撤退しました。
1589年、豊臣秀吉の裁定により後北条氏の城となっていた沼田城ですが、沼田城主・猪俣邦憲が真田方の名胡桃城を奪取したことから小田原攻めが勃発し、間もなく後北条氏は滅亡しました。
後北条氏滅亡後、沼田城には信幸(昌幸の嫡男)が入り、1597年より天守閣を造営するなど近世城郭への改修を進めます。
関ヶ原の戦い、大坂の陣後も沼田真田家は栄えましたが、1681年、真田信澄(五代藩主)が改易されると、翌1682年に沼田城は廃城となります。
ですが1703年、本多氏が入り、縮小された規模で城を復興。
本多氏の後、黒田氏、土岐氏が入り、明治時代を迎えました。

沼田城訪問記

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お城データ

所在地 群馬県沼田市西倉内町
築城者 沼田顕泰
別名 蔵内城
城郭形態 崖城
備考 現在は沼田公園となっている。
周囲には関係武将の墓所が多数ある。
アクセス JR上越線「沼田駅」より徒歩25分
駐車場 あり(沼田公園駐車場・無料)
満足度 ★★★☆☆
地図 Mapion
写真販売 本丸太鼓櫓(フォトライブラリー)
訪問日 2006年4月29日・2010年8月8日・2021年8月10日

参考資料

参考資料一覧
ビジュアル・ワイド日本の城(小学館)・現地案内板・埋もれた古城(ウモ氏個人サイト)

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