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新発田城 (しばたじょう) |
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写真は辰巳櫓と表門です。 新発田城オリジナルTシャツ 城郭関連の本 城郭関連商品 |
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新発田城訪問記 旧ページ | |||||||||||||||||||||
新発田城の築城時期については定かではありませんが、室町時代にはすでに、鎌倉御家人であった佐々木加地氏の一族である新発田氏の館でした。 1578年の御館の乱後、多大な功を挙げたにも関わらず上杉景勝に冷遇された新発田重家が反乱を起こし、越後を二分。 景勝と重家の争いは1587年まで続きましたが、最終的に景勝が勝利し、新発田城は落城したのです。 1598年、豊臣秀吉の命により溝口秀勝が入り、1602年から旧城を取り込んだ新城の築城が開始され、1654年、三代目藩主・溝口宣直の時代に一応の完成をみたのです。 完成した新発田城は、本丸が舟のような形をしていたため『舟形城』とも、周囲に菖蒲の花が数多く咲いていたことから『菖蒲城』とも、築城の際、一匹の狐が尾を引いて縄張りを提示した逸話から『狐尾城』とも呼ばれています。 ですが、1668年の大火、1669年の地震により、建物・石垣の殆どが失われてしまいました。 しかし、当時の最新技術『切込みはぎ』と『算木積み』を駆使し、新発田城は再建されたのです。 明治時代には、残念なことに政府の命により、表門と旧二の丸櫓のみを残して取り壊されてしまいました。 本丸・二の丸は陸軍省の管轄となり、戦後は米軍が一時的に駐留しました。 1946年以降には、旧兵舎新潟青年師範学校や新潟大学新発田分校などに使用され、現在、旧兵舎は陸上自衛隊駐屯地となっています。 そして1998年には、溝口秀勝の入封400年を記念して三階櫓・辰巳櫓の復元が開始され、2004年に完成しました。 |
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参考文献・参考サイト ビジュアル・ワイド日本の城(小学館)・現地解説板・埋もれた古城(ウモ氏個人サイト) |