本多忠勝TOPへ
比類なき働きで名を馳せる
 忠勝は、松平氏譜代の家臣である本多忠高の子として、三河に生まれました。
 1559年に元服をした際に、幼名鍋之介から「平八郎忠勝」と改名。この忠勝という名は「ただ勝つのみ」という意味が込められたものだと言われています。
 忠勝の初陣は1560年、今川義元の西上に従った家康の元での丸根砦、大高城攻めで、この際は目立った功は挙げていません。
 忠勝が始めて功を挙げたのは、義元の死後、家康が三河を統一する過程での長沢の戦いでした。
 その後、家康が三河を統一するまでの間、忠勝はそれに従い転戦。様々な軍功を立てたことから「蜻蛉切りの平八郎」と恐れられました。
 1566年には榊原康政と共に与力五十騎を配属され、1569年には一手役の将となりました。
 1570年の姉川の戦いの際、忠勝は朝倉氏の金ヶ崎城を攻める準備をしていましたが、浅井軍の寝返りにより断念して退き、徳川軍本隊と共に、織田軍の殿を務めていた羽柴軍・明智軍・池田軍を救援しました。
 逸話ではその後、忠勝は朝倉軍一万に単騎で駆け出し、真柄直隆という武将と一騎討ちをし、それに勇気付けられた家康本隊が朝倉軍を打ち破ったと言われていますが、史実での姉川の戦いを見る限り、これは真実ではないでしょう。
 1572年の三方ヶ原の戦いでは、討死を覚悟した家康に対し、忠勝は撤退を進言。一言坂で武田軍に追いつかれた際は殿を務め奮戦し、味方が天竜川を渡った事を確認してから撤退。
 この活躍に驚嘆した武田信玄の近習・小杉左近は「家康に過ぎたるものは二つあり。唐の頭(唐牛の尾毛で飾った立派な兜)に本多平八」と詠んだといわれています(一般的には、高札に記された落書きにこれが書いてあったといわれています)。
 また信玄が死亡した後は、忠勝は長篠城を攻め、これを奪取しています。
 1575年の長篠・設楽原の戦では、忠勝は武田方の武将・内藤昌豊を討ち取りました。
 1582年の本能寺の変の際は、忠勝は家康の神君伊賀越えに従い、家康を守りました。
 一説には、信長の後を追い殉死しようとした家康を諌め、忠勝が伊賀越えを提案したと言われていますが、家康は信長に殉死する気などなかったと考えるのが妥当なため、これは真実ではないと思われます。
 1584年の小牧長久手の戦いの際には、忠勝はわずか五百の手勢を率いて、数千の秀吉軍と睨み合いました。
 和議がなった後、秀吉からその胆力ぶりを賞賛され「一騎当千の兵とは汝のような者のことを言う。東国に本多平八あり、鎮西に立花宗茂あり」と評されました。
inserted by FC2 system