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「武」の逸話
 忠勝と言えば、やはり武人としての印象が強い人物です。
姉川の戦や小牧長久手の戦の活躍は有名ですが、忠勝ほどの人物となると、その他にも武の面での逸話は多数残っています。
ここでは、その逸話のいくつかを、紹介していきましょう。

武功は自らの手で
「忠勝の歴史」の中でも取り扱った長沢の戦いの際のことです。
忠勝は初陣以外、功を立てることができていませんでした。
そのため伯父である忠真は忠勝に手柄を立てさせようと、敵を組み伏せ「忠勝よ、こやつの首を取れ」と言ったのです。
しかし忠勝は「他人の手を借りた武功など不要!」と一蹴し奮起。
単騎で敵陣に突入し、見事に敵の首級を挙げたのです。

長篠での愚痴
1575年の長篠の戦いの終了後、忠勝はどこか物憂げでした。
家臣がそのわけを尋ねると、忠勝は「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思っている。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と愚痴をこぼしたのです。

関ヶ原の戦い
忠勝は関ヶ原の戦いの際、一軍を率いて島津・宇喜多軍と交戦しました。
東軍が勝利した後、福島正則が忠勝の采配を褒め称えました。
すると忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたといいます。

怪力を持っていた忠勝
忠勝の次男である忠朝は舟を漕ごうとしたのですが、櫂の部分が劣化して錆びていたので、どんなに力を入れても全く動きませんでした。
それを見ていた忠勝が櫂を動かそうとすると、櫂はあきれるほどすんなりと動き、しかも劣化していたため折れてしまいました。

生涯無傷の闘神
 忠勝は、生涯五十七度の戦に出陣し、一度も傷を受けたことがないといわれています。
 一般に、戦で武将が傷を受けないことは、それほどのことではありません。
 なぜなら、普通武将は隊を指揮する立場にあり、直接敵と刃を交える事は少ないのです。
 ですが忠勝は、今川義元亡き後の三河平定戦で転戦した際には、わずか五十〜二百の軍勢で戦っています。
 これほど少ない軍勢であれば、いくら将といえど、後方で指揮をしているばかりではなく、直接戦わねばなりません。
 なのでもし、忠勝が生涯無傷であったとするならば、それはかなりのことなのです。
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