飯田須和(いいだ すわ)
人物概略
阿茶局の名でとても有名な人物で、武芸や才略に優れていた。
徳川家康の側室となり、徳川家、ひいては江戸幕府のために働いた。
徳川家のために働いた須和
飯田須和は1555年、武田信玄の家臣・飯田直政の娘として生まれました。
1573年、須和は一条信龍の家臣・神尾忠重に嫁ぎました。
須和は忠重の間に、神尾守世・神尾守繁の二男をもうけましたが、1577年に神尾忠重が亡くなってしまいました。
未亡人となっていた須和ですが、1579年に徳川家康の側室となりました。
須和は武芸や才略に優れており、当時の女性としては珍しく、主人(家康)の出陣に同行していました。
1584年の小牧長久手の戦いにも同行し、陣中で懐妊するも流産してしまい、以後子供を授かることはありませんでした。
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家康は須和を非常に信頼していたようで、須和は徳川秀忠や松平忠吉の養育を担当。
1614年の方広寺鐘銘事件では、須和は徳川家康と共に大蔵卿の局と対面。
同年の大坂冬の陣では、和議の成立に尽力しました。
1616年に徳川家康が死去する際、須和は遺命により剃髪をせず、江戸城竹橋に屋敷を与えられました。
これは側室としては異例中の異例であり、須和は家康の死後も、引き続き徳川家のために働きました。
1620年、須和は徳川和子入内の守役を務めた功により、後水尾天皇より従一位を賜りました。
従一位は最高の官位であり、須和は一位局・一位尼と呼ばれるようになりました。
1632年に徳川秀忠が没すると、須和はここで初めて剃髪し、雲光院と称しました。
そして1637年、83歳でその生涯を閉じたのです。
関連史跡
人物データ
生年 |
1555年 |
没年 |
1637年 |
父親 |
飯田直政 |
母親 |
不明 |
兄弟 |
不明 |
夫 |
神尾忠重 |
子息 |
神尾守世・神尾守繁・神尾元勝(養子)・高源院(養子) |
参考書籍