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関宿城
(せきやどじょう)
博物館
写真は関宿城博物館です。
城郭関連の本 城郭関連商品
所在地 千葉県野田市関宿三軒家
築城者 簗田成助
別名 なし
城郭形態 平城
備考 現在は堤防工事などにより、ほとんどの遺構が存在しない。
アクセス 東北自動車道「久喜IC」より車で30分ほど
駐車場 あり
満足度 ★★☆☆☆(5段階中2段階)
写真販売 移築城門(フォトライブラリー)
地図 Mapion
関宿城訪問記
関宿城は、古河公方・足利成氏の家臣である簗田成助が、1457年に築城したといわれています。
関宿城は簗田氏の城でしたが、1558年、後北条氏により関宿城を明け渡すこととなり、しばらくは足利氏が入りますが、1562年、後北条氏により簗田晴助が、再び関宿城に入りました。
ですが、1564年の第二次国府台合戦の際、後北条氏は簗田氏に対する圧力を強め、翌1565年、俗に言う第一次関宿合戦が開始され、関宿城は後北条氏に攻撃されました。
ですが簗田氏は頑強に抵抗し、その甲斐あって後北条氏は撤退し、1567年に和議が結ばれました。
ところが1568年には、俗に言う第二次関宿合戦が開始され、関宿城は再び攻撃を受けます。
ですが武田信玄などの動き、甲相駿三国同盟の破棄などにより、攻撃は中止されました。
簗田氏はこの隙に武田信玄と接近し、身の保全を図ります。
ですが俗に言う第三次関宿合戦が始まり、1573年、北条氏照による夜襲を受けたのをはじめ、翌1574年には、後北条氏の大軍により関宿城は包囲され、簗田氏は上杉氏や佐竹氏に救援を求めるも、とうとう開城し、以後関宿城は後北条氏の城となりました。
1590年の豊臣秀吉の小田原攻めにより関宿城は開城し、以後は徳川家の城となりました。
松平康元が入城したのをはじめとし、松平・小笠原・北条・牧野・板倉・久世など様々な譜代大名が城主となりましたが、1705年の久世重之以降は、代々久世氏の治める城となりました。
明治時代になると、関宿城の所管は明治政府の手に移り、1872年には所管が陸軍省へ移され廃城と決定され、1875年に所管が再び明治政府に移ったのをきっかけにすべて破却されてしまったのです。。
現在城跡として残っているのは全体の一部で、約三分の二は、明治以降何回も繰り返されてきた河川改修により、堤防の下に埋もれてしまっています。
城址碑の北には関宿城博物館がありますが、これは復元の際、史料がないということで、江戸城の富士見櫓を模し、復元されたものです。
参考文献・参考サイト
ビジュアル・ワイド日本の城(小学館)・現地解説板・埋もれた古城(ウモ氏個人サイト)
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