征夷大将軍となった秀忠の政治 | 秀忠TOPへ | |
さてそんな秀忠でしたが、1605年、家康から征夷大将軍の位を譲られ、江戸幕府の第二代将軍となりました。 これは将軍職が世襲であることを示すための行動であり、実際の権力は、大御所として駿府にいた家康が握っていました。 これにより江戸幕府の政治は、駿府の家康と江戸の秀忠の二元政治となりますが、秀忠は家康の意を良く酌み、家康の意に沿った政治を行いました。 武家諸法度や禁中並公家諸法度も、秀忠の名で発布されてはいますが、実際には家康の意思が大いに絡んでいたのです。 秀忠はまた1614・5年の大坂の陣にも参陣しましたが、残念ながらこれと言った功を立てることはできませんでした(別に、立てる必要はあまりないのですが)。 さて1616年、家康が没した後、秀忠は次第に将軍としてその力量を発揮していくことになります。 秀忠の頭には鎖国政策があったらしく、外国船が寄港できる場所を平戸・長崎に限定しました。 また外様大名を次々に改易し、その数はなんと二十三にも及びました(秀忠が一番多く改易しています)。それと平行して譜代大名でも有力な大名を取り潰していったのです。これらは江戸幕府の力を絶対的なものにするための政策です。 また徳川御三家を紀伊・水戸・尾張に配置し、かつて家康が過ごしていた駿府は直轄領とし、子である忠長に与えたのです。 一方朝廷に対しても秀忠は、後水尾天皇に娘である和子を入内させるなど関係を強化する一方、厳しい引き締めを行ったのです。 このように幕府の基礎を作ったと言っても良い秀忠ですが、1623年、将軍職を家光に譲り、隠居生活を始めました。 ですが家康と同じく、秀忠は大御所となり政治を執り、かつてと同じく江戸幕府の政治は秀忠と家光の二元政治となったのです。 1631年、「無軌道な行動が目立ってきた」との理由から、秀忠は忠長の領土である駿府を没収し、甲斐に蟄居することを命じました。 ですがこの頃から秀忠は体調を崩し、翌1632年に亡くなってしまったのです。 |