恐妻家であった秀忠 秀忠TOPへ
 秀忠の正室は織田信雄の娘である小姫でしたが、祝言を挙げただけで破談となっていました。
 1595年、秀忠は継室として、浅井長政の娘でお市の方の三女、浅井達子(お江)を迎えました。
 達子はそれまで、政略結婚の道具とされており(結婚と離婚を繰り返していた)、決して幸せな人生を歩んでいるわけではありませんでした(この時代の女性であれば当然ですが)。
 その反動か、秀忠の正室となった後、達子は秀忠を尻に敷き、秀忠は達子に頭が上がらなかったと言われています。
 現在でも使われている「かかあでんか」という言葉の語源は、この二人から来ていると言われています。
 江戸幕府の将軍でありながら、秀忠は側室を持つことを許されていなかった秀忠ですが、一度だけ達子の目を忍んでお静の方(女中です)に手を出しました。
 ところがお静の方に子供が生まれてしまうという想定外の出来事が起こったため、秀忠は慌てます。
 達子の追及を恐れた秀忠は、その子供を保科家の養子に出してしまいました。

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