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縁切り寺・東慶寺を確立した奈阿 |
豊臣奈阿が入った東慶寺は、『縁切り寺』として有名です。
縁切り寺とは、男性にしか離婚請求権が認められていなかった江戸時代にあっても、
そんな東慶寺ですが、実は東慶寺を縁切り寺として確立させたのは、奈阿であると言われているのです。
1643年、会津藩主・加藤明成と、その重臣・堀主水が不和となり、
当然明成は『主水の妻子を差し出せ』と、東慶寺に迫ります。
最終的に、奈阿の訴えが幕府に認められ、明成は改易処分となってしまいました。 以上が、東慶寺が縁切り寺として確立した事件です(いわゆる『会津騒動』)
ここから少し話がそれますが、この争いで東慶寺が勝利した背景には、
理由として考えられるのは、幕府が奥羽を睨む要の地である会津に、親藩大名の配置を意図していたということ。
そしてもう一つの理由が、徳川千と奈阿との関係です。
つまり、『明成は将軍家と深いつながりのある東慶寺と、あえて事を構えようとしている。
もっとも、上記両方の根本にあるものが『加藤家を改易したい』との幕府の考えであることは否めません。 |
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