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縁切り寺・東慶寺を確立した奈阿

豊臣奈阿が入った東慶寺は、『縁切り寺』として有名です。

縁切り寺とは、男性にしか離婚請求権が認められていなかった江戸時代にあっても、
女性がこの寺に駆け込んで3年修行すれば、女性の方から離婚を請求できるようになるという寺で、
江戸幕府公認のものであったため、たくさんの女性が東慶寺を訪れたといいます。

そんな東慶寺ですが、実は東慶寺を縁切り寺として確立させたのは、奈阿であると言われているのです。
その理由として伝わっている話を、ここでは見てみましょう。

1643年、会津藩主・加藤明成と、その重臣・堀主水が不和となり、
最終的に主水は主君に楯突いた罪人となり、処刑されてしまったのです。
当時は連座制ですから、罪人の一族はみな罪人、つまり主水の妻子もまた、罪人となってしまうのです。
身の危険を感じた主水の妻子は、保護を求めて東慶寺に駆け込んできたのです。

当然明成は『主水の妻子を差し出せ』と、東慶寺に迫ります。
対する奈阿は、『東慶寺は男子禁制・女性保護の寺であり、明成の行動は寺法侵犯である』と、幕府に訴えたのです。

最終的に、奈阿の訴えが幕府に認められ、明成は改易処分となってしまいました。
こうして、東慶寺は『幕府公認の女性保護の寺』として広く知られ、女性の為の駆け込み寺・縁切り寺となったのです。

以上が、東慶寺が縁切り寺として確立した事件です(いわゆる『会津騒動』)

ここから少し話がそれますが、この争いで東慶寺が勝利した背景には、
開基・北条貞時、開山・覚山尼(北条時宗婦人)という東慶寺の格式の高さもあるのですが、
やはり、それだけが理由ではないと考えられます。

理由として考えられるのは、幕府が奥羽を睨む要の地である会津に、親藩大名の配置を意図していたということ。
これは明成の改易後に、保科正之(徳川家光の異母弟)が会津に入っていることからも明らかです。

そしてもう一つの理由が、徳川千と奈阿との関係です。
千姫と仲が良かった奈阿』で述べたように、千と奈阿の関係は非常に良いものでした。
そして千は、時の江戸幕府将軍・徳川家光の姉に当たる人物です。

つまり、『明成は将軍家と深いつながりのある東慶寺と、あえて事を構えようとしている。
これはつまり、将軍家の威光を軽んずる事に他ならない』と、幕府が判断した可能性が考えられるのです。

もっとも、上記両方の根本にあるものが『加藤家を改易したい』との幕府の考えであることは否めません。
ということは、『東慶寺は、江戸幕府にうまく利用された』という見解が、一番正しいものなのかもしれません。

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