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備中松山城
(びっちゅうまつやまじょう)
松山城
写真左から、六の平櫓・五の平櫓・天守です
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所在地 岡山県高梁市内山下
築城者 秋庭重信
別名 備中高梁城
城郭形態 山城
備考 日本三代山城の1つ。
(備中松山城・高取城・岩村城)
日本一高い場所に現存天守を持つ。
アクセス JR伯備線「備中高梁駅」より
乗り合いタクシーで20分
→駐車場より登山20分
※乗り合いタクシーは1人あたり420円
駐車場 あり
満足度 ★★★★★(5段階中5段階)
写真販売 フォトライブラリー
地図 Mapion
備中松山城訪問記壱 備中松山城訪問記弐
備中松山城は1240年、秋庭重信がこの地に砦を築いたことに始まります。
南北朝時代に入ると、三好氏の一族である高橋氏が入城し、城址は拡張され巨大になっていきました。
その後、備中松山城の城主は高氏・上野氏・庄氏・尼子氏とめまぐるしく入れ替わりますが、
1561年、毛利元就の支援を得た三村家親が、尼子氏の城代吉田氏を討ち城主となりました。
三村氏は宇喜多氏と敵対していたのですが、やがて毛利輝元が宇喜多氏と和睦したため
「三村氏も宇喜多氏と和解せよ」と命じられてしまいます。
時の当主・三村元親はそれを拒絶し織田家に走り、俗に「備中兵乱」と呼ばれる動乱が始まりました。
そのため1575年、備中松山城は小早川隆景により攻められ落城し、以後は毛利氏の城番が置かれました。
1600年の関ヶ原の戦い後、備中国が徳川氏の直轄領となったため、
備中松山城には奉行として小堀正次が入城。
備中松山城ではしばらく城番時代が続くのですが、1642年に下館城より水谷勝隆が入封し、
その子勝宗の時代に、今見られる天守や石垣などが造営されました。
水谷氏が三代続いた後、高崎城より安藤氏、淀城より石川氏が入城しますが、
1744年に伊勢亀山城より板倉勝澄が入城すると、以後は板倉氏が七代続いて明治維新を迎えました。
参考文献・参考サイト
ビジュアル・ワイド日本の城(小学館)・現地解説板・お城の旅日記(中西様個人サイト)
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