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家康の関東入封後の忠勝
 1590年の小田原攻めでもまた、忠勝は徳川勢の一員として従軍。
忠勝は関東を転戦し、鉢形城など数々の城を落としました。
 小田原攻めの後、忠勝は上総・大多喜10万石(徳川家中第二位の禄高)を与えられ、大多喜城主となりました。
 1600年の関ヶ原の戦いの際、忠勝は井伊直政と共に東軍武将の軍監を勤め、また西軍武将に対し、「こちらにつくように」との書状を発行することによって西軍を撹乱し、次男忠朝と共に島津・宇喜多軍と戦い多数の敵を討ち取りました。
 また戦後、小松姫(忠勝の娘)が嫁いでいた真田家の助命を願い出ますが、家康は聞き入れません。
 それに業を煮やした忠勝は「ならば殿と一戦も辞さぬ」と啖呵を切ったのです。
 この一言により(かどうかは分かりませんが)、真田昌幸・信繁(幸村)は処刑を免れ、九度山に蟄居という処分となったのです。
 さて、関ヶ原の戦いの功により、1601年、忠勝は伊勢の桑名10万石を与えられ、大多喜は次男忠朝に与えられました。
 これは戦場での槍働きの機会が失われ、また家康の周りに文治に優れた者が増えてきたため、武の色が強い忠勝らが遠ざけられたという事実を示していると言われています。
 また、どうやら忠勝はこの頃眼の病を煩っていたようで、それも無関係ではないでしょう。
 この後の忠勝は桑名でひっそりと暮らし、1609年、嫡男である忠政に家督を譲り、翌1610年に静かにその生涯を閉じたのです。
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