加藤清正TOPへ
朝鮮出兵と清正

そんな清正は、1592年、文禄の役が始まると朝鮮に渡海。
朝鮮の二人の王子(順和君・臨海君)を捕らえたことに始まる数々の武功を立てたのですが、
明使に対しての略奪行為や、勝手に「豊臣清正」と名乗るなど問題行動も多く起こしました。
そのため、1596年に本国に呼び戻され、しばらくの間京都に蟄居することになってしまったのです。

しかしまもなく許された清正は、1597年の慶長の役に際し再び朝鮮に渡海。
先鋒を務めた清正は全羅道の戦い、蔚山城の戦いなどで奮戦しました。
(実際は奮戦より殺戮という表現が近かったようで、当地の人々から清正は「鬼上官」として恐れられていました)

1598年、秀吉が亡くなると、清正らは朝鮮から撤退。
清正は徳川家康に接近し、家康の養女を側室として娶るなど、徳川家との結びつきを深めていったのです。

「3 関ヶ原の戦いと、その後の清正」へ
inserted by FC2 system