関ヶ原の戦いにおいての秀忠 秀忠TOPへ
 秀忠は、徳川家康の三男として生まれました。
家康の長男であった信康は信長により自害させられ、また次男である秀康は豊臣秀吉の養子に出され結城家の家督を相続したため、三男と言う立場にありながら秀忠は家康の後継者として育ちました。
 1590年、織田信雄の娘である小姫と婚約しましたが、信雄が除封となったため破談し、しばらくの間秀忠は正室を持つことはありませんでした。
 しかし1595年、秀吉と家康の中を取り持つ意味合いで、浅井長政の三女の達子(お江)を秀吉の養女として正室に迎えました。
 そんな秀忠でしたが、1600年の関ヶ原の戦いでのエピソードは有名です。早速見てみることにしましょう。

 関ヶ原に遅参した秀忠
 家康は、東軍の部隊を二つにわけ、一つは家康が率いて東海道を、もう一つは秀忠が率いて中山道を進むことにしました。
 秀忠はそれに従い中山道を進んでいましたが、途中で真田昌幸が守る上田城を攻撃します。
 楽に落とせると思っていた秀忠ですが、上田城攻略は予想以上に難航し、落とすことができません。
 そうこうしている間に時は過ぎ、結局秀忠は、関ヶ原の戦いに遅参すると大失態を演じてしまい、家康には手ひどく叱責されたのです。

 従来、この話は秀忠の無能さを表す話とされていたのですが、最近ではそうではない見解が提示されており、自分もそれに賛成です。
 というのも、秀忠は真田信之に対し「自分は上田に出撃する」という書状を出しており、また家康も浅野長政に対し「秀忠が信州上田に出撃するので、共に出陣し補佐してほしい」という書状を送っているからです。つまり、秀忠は初めから上田城を攻略する目的で出陣しているのです。理由はおそらく、動向がまだはっきりとしていなかった昌幸を警戒するためでしょう。
 しかし9月1日、家康は西進することを決め、秀忠にも「急いでこちらに来るように」との使者を送ります。が、豪雨により使者の到着が大幅に遅れ、使者が秀忠の下に到着したのは9月9日だったのです。秀忠は急いで西進しますが、結局関ヶ原に到着したのは9月17日(関ヶ原の戦いは9月15日)だったのです。
 この考えに対する反論として、「家康はこの後秀忠を手ひどく叱責している。ゆえに伝令の遅れなどで遅参したのではない(もし伝令の遅れなどが原因ならそれほど叱責はしないはず)」というものがありますが、自分は秀忠が叱責されたのは、別の理由だと考えています。
 その理由は「軍の損害が予想以上にひどいから」です。
 上田城に篭城していた兵は二千ほどで、秀忠の軍はおよそ三万五千ほどです。通常考えればそれほど損害なく城を陥落できそうですが、「我が軍大いに敗れ、死傷者が多数出ている」という記述が「烈祖成蹟」に残っていることから、秀忠の軍は相当の損害を負ったことが伺えます。
 兵力への損害はもっとも避けなければいけないことであるため(兵力は物資と違い、すぐに補充できるものではない)、そのさまを見た家康が怒ったのも容易に想像がつくでしょう。
 つまり、秀忠が叱責された理由は、「関ヶ原に遅参したから」ではなく「軍の損害がひどかったから」だと考えられるのです。 
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