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上田城 (うえだじょう) |
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写真は南櫓(左)、大手門(中央)、北櫓(右)です 城郭関連の本 城郭関連商品 |
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上田城訪問記 | |||||||||||||||||||||
かつてこの地には、有力な土豪であった小泉氏の館がありました。 織田信長死後、真田昌幸は北条氏政に接近しましたが、後に徳川家康に接近。 これに怒った北条氏政が圧力を強めてきたため、昌幸は上田城の築城を開始。 途中で上杉景勝などの妨害もありましたが、上田城は完成しました。 1585年、「沼田城を北条氏に引き渡すように」という家康の命令を「沼田は父祖伝来の土地である」と昌幸が跳ね除けたことから、上田城は家康に攻められますが、昌幸は巧みに籠城戦を戦い、家康は上田城を落とせずに撤退しました。 1600年、関ヶ原に向かう徳川軍本隊が上田城に接近。 本隊の総大将である徳川秀忠は、昌幸に対し降伏を勧告しますが、昌幸は籠城の構えを見せます。 そのため秀忠は上田城を攻めますが、昌幸はここでも巧みに籠城戦を戦い、秀忠は上田城を落とすことができず、結局抑えの兵のみを残し西上しました。 関ヶ原の戦い後、上田城は徹底的に破却され、真田信之が入り復興に手をつけるも、信之は1622年に松代藩に転封となり、松代城主となりました。 そのため上田城は荒廃しますが、その後に入った仙石氏により、上田城は復興されました。 1706年、仙石氏が但馬に転封となった後は松平氏が入り、忠礼の代に明治時代を迎えました。 |
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参考文献・参考サイト ビジュアル・ワイド日本の城(小学館)・現地解説板・現地配布パンフレット・埋もれた古城(ウモ氏個人サイト) |