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会津若松城 (あいづわかまつじょう) |
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会津若松城訪問記 | |||||||||||||||||||||
会津若松城は、1384年に葦名直盛が築いた東黒川館(小田垣館)に始まると言われています。 その後、黒川城(会津若松城は当時そう呼ばれていた)は代々葦名氏の居城となっていましたが、葦名氏は1589年の摺上原の戦いで伊達政宗に滅ぼされ、黒川城は伊達氏の城となりました。 1590年の豊臣秀吉の小田原攻め後、会津若松城には蒲生氏郷が入り、漆黒の天守などを普請する一方、城下町の整備を進め、黒川城を鶴ヶ城、黒川という地名を若松と改称しました。 1597年、蒲生氏が宇都宮城に移されると、会津若松城には上杉景勝が入ります。 しかし1601年、上杉家は米沢城に移され、会津若松城には再び蒲生氏が入ります。 ですが蒲生氏には不幸(早逝)が相次いだため、1627年に加藤嘉明が伊予松山城より入城すると、加藤氏は会津若松城の改修を行い、現在見られる会津若松城を整えました。 その後、加藤氏は改易となり、会津若松城には徳川秀忠の子・保科正之が入ります。 保科氏は松平姓を賜り親藩大名となり、以後会津若松城には保科氏(松平氏)が続き、幕末を迎えます。 1862年、時の城主・松平容保が京都守護職に命じられ、公武合体を推進したため、1868年から始まった戊辰戦争では朝敵とみなされてしまい、会津若松城は新政府軍の攻撃を受けます。 会津若松城は一ヶ月の籠城戦の末開城し、松平氏は陸奥国斗南に改易となりました。 その後、会津若松城の建築物は競売に掛けられるなどし、1871年に廃城となりました。 |
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参考文献・参考サイト ビジュアル・ワイド日本の城(小学館)・現地解説板・現地配布パンフレット・ザ・登城(46様個人サイト) |